今年もお正月の箱根駅伝に感動しました。1本のたすきを次の選手につなぎゴールを目指す。つながるかどうかギリギリの時は、テレビの前の私たちもガンバレッと叫んでしまう。駅伝は優勝争いだけでなく、様々な胸を打つシーンがあり、だからこそ多くのファンがひきつけられるのだと思います。
何のために走るのか。理由は一人一人違う。太宰治の「走れメロス」は有名な小説ですが、彼が走る理由に私は瞠目(どうもく)させられました。
ストーリーそのものはシンプルで、人を信じない国王が疑心暗鬼に多くの民を殺す。メロスは王を殺そうと城に行くが捕えられる。妹の結婚式に出席するため、処刑の猶予をもらい遠くのむらに向かう。友セリヌンティウスを人質に残して。しかし、帰路豪雨で橋が流失。メロスは激流を泳ぎ切り、必死に走り続け、陽が沈む刹那(せつな)、処刑場に到着する。王は二人の友情と信頼に心を打たれ、メロスを許すという物語です。
私が強く感動したのは、最後の少し前のシーン、メロスがようやく市の近くまで来た時です。セリヌンティウスの弟子がメロスを見つける。裸で口から血を吐いて走るメロスにもう走るのをやめてくれと言う。あなたまで死ぬことはない。師は処刑されるが、あなたを信じていた、と。これに対して、メロスは「それだから走るのだ」と言う。間に合う間に合わぬは問題ではない。人の命も問題でない。私はもっと恐しく大きなもののために走っているのだ、と。このもっと「大きなもの」とは何でしょう。今、コロナや地球温暖化、少子高齢化等様々な問題課題が横たわっています。しかし、だからこそ目に見えない「大きなもの」を見失ってはいけないと思います。走るメロスが最後に放った言葉は私たちに勇気をくれます。「ついて来い!フィロストラトス」