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「観光の本質」を考える(広報しもだ 2024.6月号より)

「観光」。観光客と下田市民で、その見方はずいぶん異なるように思います。しかし、これまでそうしたことはあまり議論されてこなかった。そこで今回はそのことについて書いてみたいと思う。

まず観光客の見方、つまり、外からの視点で観光をとらえると一つ目は魅力づくり、たとえば景色を磨いたり地産食材を提供するなどの吸引力を高めること。次が情報発信。紙媒体はもとよりTV、インターネットなど多様なツールで魅力をPRすること。そして最後がネット予約や価格引下げ等の誘導。これが一般論的な観光の要諦であろう。

しかし私たち受入れる側にとっての観光は少し違う。例えばホテルや旅館ではお客さんの泊まった部屋を掃除し、皿を洗い、ごみを拾う。あるいは飲食店で日々に異なる客数に対しておいしい料理をしっかり提供する。こうした地味で真面目な作業こそが「観光」の基盤であり、これらを支えている人々はとても重要な存在だと思う。

そして、忘れてならないのが、私たちの町へ観光で訪れる人たちは、この地で身体も心もリフレッシュされる、つまり、下田に来ることで幸せになるということである。

「伊豆はあたたかく死ぬるによろしい 波音」。放浪の俳人種田山頭火は、旅の果てに伊豆に来て死のうとする。しかし、彼はこの地で人々の優しさに触れ、生きようと思い直し、句をこう変えた。

「伊豆はあたたかく野宿によろしい波音も」(「蓮台寺そぞろ歩き」(渡辺氏)より)

そうなのだ。私たちは、観光というコトを通じて人々を癒し、再生するお手伝いをしているのだ。人生は苦しい。その苦しみを背負ってやって来る人々を温かく迎え、幸せにして帰す。観光業とはそういう人間再生のお手伝いなのだ。この崇高な仕事を私たちは改めて再評価すべきと思うのです。

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