例えば駅のエレベーターや歩道の点字ブロック。身近なところでバリアフリーが進み、社会が着実に良くなっていると実感する。ただ、こうした施設整備が進むにつれ、大切な何かが置き忘れられてないだろうか。今回はその命題についての完結編です。
20年程前、アメリカへ2週間程度視察に行った。ポートランドやサクラメント等の市役所を回って、ある政策の先進的取組を調査したのだが、その間のある日のバスの乗り降りの時の出来事である。
よく「May I help you?(何か手伝いましょうか)」と、困っている人に声をかける習慣が欧米の人たちに浸透していると言われる。私自身も外国で色々な人の親切に助けられた経験が少なからずある。ところがその日はその逆のことが起きて面食らった。私がとあるバス停でバスから降りたとき、背後のバスの中から声がかかった。高齢の女性が「Can you help me?(あなたちょっと手を貸してくれる?)」と言ってきたのだ。足腰の弱っているご婦人が、何の遠慮もなく、ごく自然に「手を貸して」と言う。私はハイハイと手を差し出して彼女がバスのステップから歩道に降りるのをサポートした。ありがとう、とその人は普通に礼を言い、歩道を去っていった。
このごく普通の自然な空気感がとても爽快だった。良い社会だなと素直に思った。それでその時、なぜかふと「橋のない川(先月号)」のことを思い出したのだ。ああ、これが橋のある社会なのだと。
装置や機械といった設備の整備拡充は、障害者の自立的行動を支える上で必要不可欠だ。しかし、設備があることで、人と人が互いに労り合う気持ちまでもが薄められるようなことがあってはならない。
バリアも橋もひっきょう私たちの心の中にあるのかもしれない、と思うのです。